有元 健 准教授

スポーツは「集団的なアイデンティティ」を作るという性質がある。

メディア・コミュニケーション・文化メジャー 有元 健 准教授

飯塚さんが受けたその差別的経験にも関連しますが、ヨーロッパのサッカー場でも黒人選手にバナナが投げられるようなことがいまだに生じています。これは明らかな人種差別ですが、世界のどこか遠い国の問題でもないのです。つい最近日本のスタジアムでも、外国人を排除するようなメッセージが貼り出されて問題になりましたね。スポーツというものは一見すると平等な参加が謳われていますが、実際には多くの側面で「私たち」の意識を形成する文化です。たとえば選手には男/女の区別、健常者/障がい者の区別があります。また、ワールドカップやオリンピックを見るとわかるように、あるチームを応援する「私たち」も生み出します。そして、この「私たち」の意識が生み出されるとき、往々にしてそこに含まれない人々を「あいつら」として排除する意識も生み出されるのです。私はスポーツの現場におけるこうした出来事は、一般社会の「排他的なテリトリー意識」のようなものが映し出されていると考えています。飯塚さんの例もそうですし、日本のスタジアムの例もそうですね。

これは「この空間には同じような人間しかいてはいけない」という考えが文化的なレベルで働いているということです。でもこのような考え方は、スポーツという文化的な領域だけではなくて、例えば「経営」という経済的な領域においてもしばしば見ることができます。労働者を雇う場合にも、例えば移民の人々は短期的・一時的な労働力として考えられる傾向にあります。つまり、移民の人々はこの日本に共に暮らしていく「私たち」には含まれず、一時的な労働力の提供者に過ぎないわけです。ここには根強いナショナリズム、そして人種差別の問題があります。なぜなら「この空間に長く住みついてよい人々」とそうでない人が、国籍や民族という枠組みで区分けされるからです。そしてその結果、そうではない人々は、先進国にとって都合のよい、一時的で安価な労働力としてのみ存在が許されるということになってしまう。もういらなくなったから帰ってくださいと、常に言われる危険があるのです。当然これは、「人権」と「差別」の問題になりますよね。

また一方で「コスト」に関する問題を、グローバル企業を例に考えてみましょう。例えば、ある企業がある途上国の工場にシューズの生産を依頼したとします。しかし翌年にはより安価に生産を行う別の国の工場と契約を結ぶわけです。自由主義の経済論理では、より安いコストで生産できる工場に委託するのは当然の行為です。しかし問題は、それによって最初の工場の労働者は突然職を失ってしまうということですね。グローバルな経済利益の追求は、ともすれば非人道的な経営にもなりかねません。そのときに生じるのがグローバルな不平等性、難しい言葉では、階級構造です。